前回からのつづきで、「仏教にお墓は本当に必要なのか?」について調べています。
前回は、仏教の本場のお墓事情を調べたら分かるのでは?という観点から調べてみましたが、そもそも現在のインドに仏教が無かったのでわかりませんでした。
ですから、今回はもっと起源的な部分からアプローチしてみます。
現在の仏教は色々と形が変わり、枝分かれしてしまってますけど、元々の仏教にお墓は存在したのか?
「お墓建てて祈るって意味わからん」
元々の仏教とは、お釈迦様が説いた仏教ですが、そこにはそもそも霊魂というものがありません。(正確には認められていない)
亡くなった後は輪廻転生して次の生を迎えるので、祀る対象も祈る対象も存在しないということになります。(解脱して仏になれば別ですが、その辺まで含めると難しくなるので省略)
なので、遺体を埋葬して、それに対して祈る行為は、原初の仏教では「意味わからん、そこに何があるの?」ってなります。
ということで、仏教ではそもそもお墓を建てることが定められていません。
仏教と、親子のような兄弟のような関係にあるヒンドゥー教でもこれは同じです。
ヒンドゥー教では、お墓は建てずに、火葬して、ガンジス川に流します。
お墓を建てることが仏教で定義されたものでなければ、どうやってこの文化が発生したのでしょうか?
ざっくり言ってしまうと、現在の日本式仏教は、色々混ざったハイブリット宗教なので、その混ざり物が仏教にお墓を建てる文化をもたらしました。
何が混ざったのか?
日本式仏教の混ざりもの ①
仏教はインドで生まれて、中国に渡って、その後日本に渡りました。
その中国では、お墓を建てます。お墓参りにもいきます。
その文化が、仏教が日本に渡って来る際に混じったようです。
この文化は古代中国を支配していた儒教の文化です。
儒教を簡単に言うと、「目上の人や年長者を敬いましょう」という文化です。
教科書にも載っています。創始者はかの有名な「孔子」さんです。
この中に、「先祖も敬いましょう」という項目があり、これがお墓を建てる理由になっています。
対象がないと敬うのが難しいので、そのためのシンボルとしてお墓を建てましょう、という理由です。
この文化が日本式仏教にも混ざっています。
実際には、儒教文化が混じった仏教を輸入したのか、儒教と仏教を一緒に輸入したら、混じっちゃったのかは不明ですが。
これが混じりものの内の一つです。まだ他にもあります。
日本式仏教の混ざりもの ②
他にも現在の日本式仏教に混じったものとして、元々日本に存在していた文化です。
元々、日本でもお墓を建てていました。
古墳を思い出してください。あれは仏教渡来より前のものです。
貴人以外も、古墳ではありませんが、埋葬(土葬)して、木や石を置いてお墓を作っていました。
この文化があったので、儒教プラスした仏教が入ってきた際に、急速に浸透していきました。時の政府が推奨したのも理由のひとつです。
こうして、仏教にお墓を建てる文化が混ざり、お墓を建てる文化の上に布教したため、現在の日本の仏教はお墓を建てる宗教になりました。
で、結局お墓は必要なのか?
実際のところ、仏教にはお墓は必要ありません。
ですが、お墓を建てるのが、日本の文化です。
「仏教に“お墓を建てる”という不純物が混じってしまった」ではなく、「お墓を建てる文化のところに、さらに仏教が広まって混ざった」と考えてください。
なので、日本伝統の文化として、お墓を建てるのが正しい姿なのではないかなと考えています。
もちろん、散骨や手元供養を否定しているわけではありません。
より伝統的なのはどっちかと考えた際には「お墓を建てるのが伝統的」と考えられるという、私なりの答えです。
以上、寄り道しながら長くなってしまいました。お付き合いありがとうございました。