ネットニュース巡回中に見た記事に「月命日読経を動画配信」という記事が。

月命日お経を動画配信、喜びの声(福井新聞オンライン)

タイトルを見た瞬間は、若干の違和感を感じた。

それは、宗教上の儀式は形式を重んじるからこそ存在するものであって、その形式を無視したものになってしまうのでは?と思ったからだ。

しかし、記事を読んでみて、その間違いに気づく。

儀式、特に葬儀・法要などは、そもそも故人に対する想いを表現したものだ。

だからこそ、形をどうこう言うべきではなかった。

 

形式は意味と意義のもとに成り立つものであるのに、形式を重んじるあまり、意味も意義もないがしろにしてしまった。

 

最近、作法や戒律、規律などの記事ばかり読みふけっていたので、頭が固くなっているようだ。

この記事は、その悪い状態を気づかせてくれた良い機会だった。

 

ちなみに、お寺でスマホや動画配信というのも、あまり似つかわしくないのでは?と思った方も多かったと思うが、「卒塔婆プリンター」など、IT化はどんどん進んでいる。

ぶっちゃけお寺はお金を持っているので、営業マンもガンガン商談を持ちかける。

それに、最近は古臭いものとされてしまっているが、古くから宗教は、新たな技術・芸術・政治など、最先端を走り続けていた。

だから別にお寺が最新技術に手を出すことはおかしなことではない。

 

話が脱線してきてしまってまとまらなくなってきたので、この辺で終わる。

言いたかったことは、「意味と意義が通るなら、形式は二の次でもいいじゃないか」ということ。